二つの法意識

日本人の法意識は、いますこし広げて言えば、東北アジア(中国・朝鮮半島・日本・ベトナム北部など)……に共通するものであり、それは東北アジアの歴史と深いかかわりがある。……その[(注)中国の]長い歴史において、法は政権担当者の統治手段として存在し続けたのである。だから、統治される国民にとっては、法とは自分たちの側のものではなくて、すなわち自分たちを守るものではなくて、……支配している相手側のものという意識であった。この法意識は周辺国家である朝鮮半島や日本にも影響し、同じような法意識が形成されていったのである。……すなわち、欧米近代国家の、個人の人権や契約を守る自分たちのための法という意識に対して、[東北アジアでは]政権が秩序を守るための法という意識なのである。
加地伸行『現代中国学』(中公新書、1997年)40,41頁より

 この引用文章を読んだ上で日本国憲法改正論について振り返ると、政治家の方から改正を言い出すとき、その話には国民に対する統治、支配が含まれていることに気が付かされる。一見、そうは思えないような、国民の保護や安全保障などの題目で改正を提唱されても、政権による支配がオブラートに包まれているようにしか私には思えないことがある。

 しかし、法とは統治者のためのものであるという論だけが日本で意識されていない、ということはないと私は思う。
 
リベラルな価値を、語り続ける政治家は日本には絶対に必要だと、思います。 二大政党制が必要だ。でもそれは二大保守政党ではないはずです。リベラルな価値は、保守と対立するものではないはずです。 "リベラルって何ですか?"とここ数日たくさんの方に聞かれました。 リベラルとは、憲法に書いてある、当たり前のことです。「人は、生まれや育ちや性別で差別されることがないこと。どんな子ども達も、学校で学び、豊かな教育を受けることができる。家族責任ではなくて、社会みんなで子どもを育てていく環境を作っていくこと。そして、ひとりひとりが大切にされ、友達との会話、家族とのメール、大事な人との大事なひと時を、警察や国家に監視されることがない、自由を持つこと」です。
https://www.yamaoshiori.jp/blog/2017/10/post-406.html「疑惑報道から離党、今日までの想いと真のリベラルとしての闘い」)

 山尾さんの書いた自由観、すなわち憲法の見方は上記のような「自分たちのための法」というべきものと思うのである。そして、山尾さんが書いてあるような例の価値は他の日本人にも重要だと思ってもらえるものと私は考える。したがって、「個人の人権や契約を守るための法」の意識が日本にあるといえばある。ただし、それを「リベラル」というよく質問される、すなわち市井の人々には聞きなれない言葉でまとめてしまっているあたり、その意識を明快に表す言葉が日本には乏しいのかもしれないけれども。

 さて、そういうわけで、日本には二つの法意識が共存している。
 今度の衆議院選挙で立候補者を立てる政党の憲法観なり、過去の憲法改正論、反対論なりを理解してみようとする際、提唱者にはどの法意識が働いているのか、この2つをもって分析してみるといいと思う。