日本人任せの「日本人」

 先日、ある人達が工業製品の設計は日本人がやり、その大量生産は中国人にやらせるとよいと話しているのを偶然、傍で聞いた。

 このような話は今になって出だしたわけではなく、20年ほど前から、少なくとも10年ほど前からあったように思う。

 ただこの手の話を聞くたびに、いつも思うことがある。それは、「では、一人の日本人としてあなたが設計をやってみせてくれませんか?」ということだ。その話を聞いた後に、私はこの一味のある人とある仕事を一緒にせざるを得なかったのだが、工業製品設計どころか、高校物理の電磁気学の知識さえその人にはなかった。まさか外観・デザイン設計とかいうわけでもあるまい。
 また、工業製品ができあがるまでの過程で入るはずの人の手による作業がどこか軽蔑されているようにも感じる。また作成上感じられたことは設計に対して何もフィードバックされないのであろうか。
 そういうことはない。
 私は工業製品の工場勤務というのは経験したことはない。が、食品工場なら経験がある。あるパン工場では日々、改善策を少人数のチームに分かれて出し合っていた。そしてその様々なアイディアのひとつが、作成現場の人々にとっては作業工程上必要となったり、欲しかったりする既存の機械の仕様変更、または新設備の導入につながっていた。そして、どうもこのパン工場のこのやり方は、とある自動車メーカーの工場でのやり方をまねているようであった。なぜならば、その自動車メーカーが使い出していまや有名になった言葉をそのまま使っていたからであった。したがって、私の直接の経験を超えた類推となるが、他の産業においても、新しい設計を考える際に既存の製造工程から得られた経験を活かしていると判断してよい。

 日本人でありながら設計も製造もできないというのに、誰か他の人(国籍を問わず)に任せて余裕を見せていられる。
 そんな人からは何のよい思いもしない。