『西部戦線異状なし』に出てくるような開戦支持者

 すべての権力機関は暴力装置を陰に陽に必ず持っている。どれほど穏当な感じのする支配体制であっても、必ず武器を使って己の支配に抗する人間を屈服させる人員を雇っている。今から数年前、自衛隊暴力装置だと国会内で発言したらそれを糾弾する輩が国会議員等でいたが、この連中がもしも本気で糾弾していたとしたら、この連中はその装置に対して立法を持ってして出動命令できる府にいるべきではない。ただし、そういう本質を見抜いていながら、単に批判して格好つけたかっただけといった感じであった。とはいえ、それはそれで不快なことである。

 さて、そういう国会議員や報道者は今はともかく、これを読んでいる人に訊きたいことがある。それは、「あなたは自分自身の手で見も知らない人を殺めることができますか?」というものだ。戦争開戦を唱える人間というのは、究極的にはこういうことをする装置の出動を要請しているわけだ。殺せ殺せ。そう叫んでいるのである。しかし思うに、現実に動いている人々を目の前にすると、ほとんどの人は殺人要請者を「このサイコ野郎!」とでも言って非難するのではないか。
 では何らかの正当化される理由があったとしよう。例えば、攻撃された。
 ここで殺人に踏み出すのは一見正しそうだが、前提条件はつく。それは、その正当性を相手側にもよく周知されることが可能な状態を保持すること。かつ、その保持者には殺人を殺人で持って応酬するという連鎖が止められるような権力ももっていなければならないとも感じる。つまり、相手側の集団に「ああ、そんなことをした者がうちにいるのですね」と知らしめ、かつ、被害者には必要以上の応戦を許さず、加害者には殺されても仕方ないとして殺してしまい、それ以上は双方に歯止めをかけることが本当にできなければならない。なお、この状態を作ろうとしない者は、今の私にはそれこそが糾弾されるべきだと思う。

 ちなみに私は普段、このようなことを考えないで生きているのだが、最近、本当に軍拡を唱える連中が政党代表になったり国会議員になってみようとしたりし、かつそれを応援している人がいるようなので上記のことを書いた次第である。第一次世界大戦を舞台とした『西部戦線異状なし』には戦争現場を知らない能天気な戦争支持者がいて、現場で戦う主人公が戦争の合間に母国に帰り、そんなことを何の気なくリラックスした状態で話してくる支持者に心底愛想をつく場面がある。先の連中がどれほど現実、自分の主張が実現された場合の現実を受け容れる覚悟ができているのかさっぱり見えず、この小説のような支持者に思えたため、備忘録をかねて書いた。