国歌は国民の要件だ

http://www.asahi.com/articles/ASJ735KMZJ73UTIL021.html
 先日、五輪日本代表の壮行式で国歌の斉唱をある人が求めたという。
 新聞記事を読む限り、国歌の独唱の後でそういう発言をその人はしたようであり、そういう状況では選手たる自分も国歌を歌うべきか迷い、歌わない人もいたというのは自然な話だと思う。そこに、選手たるあなたが歌わないのはどういうことかと言われるのは筋違いのように思う。
 しかし、今私が気になっているのはそういうことではない。この発言を巡って国民の要件に国歌を歌えることを含めるべきかそうでないべきかの意見を出している人がツイッターで散見されたことに気が向いている。その人々の意見は、暗に、「含めるべきでない」というものだ。

 話が変わるようだが、自分はかれこれ一年以上前に「ネパール人」というものと初めて会って以来、日本人の定義を考えることが時々ある。なぜそうなったかというと、ネパール人の中には、「自分も日本人ですよ」と、冗談なのかそうでないのか判然としないことを言ってくる者が複数いるからだろう。
 「おいおい、何言ってんだ?」 自分はいつもそう思う。
 どうも彼らの想像する「国民」の要件は日本人の想像するそれと違い、異常に広いようなのだ。彼らとしては、何か片言の日本語を話せて日本に居住していれば、自分もまた日本人だと思い込むようにさえ見える。
 しかし、私から見ると、ときには腹立たしいジョークを言われているように思う。漢字が読み書きできなかったり、歴史上の著名な日本人を知らなかったり(日銀券の肖像画の人物が誰かを知らないと言われると困るのではないか。テレビで今話題になっているような芸能人なら別)など、日本文化を知らないのに、同族意識を勝手に持たれても困るのだ。
 こちらとしてはネパールらしさを誇る方がよほど好ましい。以前、ネパール人から見た日本の印象を題する作文を読んだことがあった。最初いろいろとすごいと思ったが、電車で朝から疲れた顔をして暗そうにしている人が多いことに違和感を感じ、本国ネパールではそういうことはないから必ずしも日本がよいとは思わないという主旨であった。自分もかねてから、あの疲れている感じを朝から見るにつけ疑問を感じてはいたというのもあるが、こういう論の方が好感をよほど持てる。
 しかし、単に日本を翼賛するかのような外国人というのは何なのか。そういう傾向の日本人も気持ち悪いが、こういう外国人もまた変に思う。

 さて、先の国歌だが、「君が代」を歌えることが日本人の要件とするべきか否か。
 私は歌えるべきだと思う。歌う練習を小学生の時に自分はしたが、この国歌は10代の日本人だったら人生の節目に出てきた。そういう同じ経験を共有していることが、「自分もまた日本人」という意識を育んできたように思うからだ。