内閣を支持するとは

 昨晩、ふと、現内閣による放棄したはずの戦前日本の制度を復活させるような動きまでもがあり、それに対する世論調査も「反対」の方が多いにもかかわらず、内閣支持率はなかなか落ちない理由について考えた。それは、当たり前だが、国民の側の感覚について問うことになる。安倍内閣の是非を対象とするのではない。

 ・教育勅語復活、自衛隊による敵基地先制攻撃を認めよう。これは、戦後日本が放棄した制度や思想である。
 ・森友学園による格安での国有地取得、安倍昭恵夫人が私人であるのに事実上公人としての待遇がなされている。これは、国家財産を私物化する動きである。
 ・国会での大臣答弁のレベル。これは、まるで以上の動きを他人に強迫する答弁である。

今思いついただけでもこの2か月間で、こういう事態が生じている。他にもあるし、またそれ以前から行われているものもある。しかし内閣支持率は逓減に留まる。これがなぜなのかを私は気にする。

 答えは、思いつきに留まりうまく言えないが、現内閣を支持する、という考えは子の肉親に対する期待に似ているのかもしれない、というものである。

 そこまで児童虐待に詳しくないのだが、通常、人は危害を加える人間からは逃れたり、対決したりする。しかし、例外もある。「親子」の関係においてである。「子」は、「親」が親らしからぬ言動をとったとしても信頼を即座に捨てるということはないように思うのである。子は親に対する期待をなかなか捨てきれない。現内閣に対しても、支持者の国民から見れば、これは自分の価値に反するおかしい思想だ、と内心思いつつも、最後には支持を選ぶ。内心と外部に対する言動との食い違いが見られるということで、両関係は共通してはいる。

 以下では、以上の、内閣支持と子の親に対する信頼が類似している、という仮定を認めるとする。
 このとき、ではそういう国民による内閣支持の仕方が少なくとも私の考えるような「支持」の仕方とかなり違っていたことに気が付くのである。私は、自らの親に対するような信頼をもって内閣総理大臣や閣僚を見たことは一度もない。が、他人に対し、ではあなたの内閣を支持するとはどういう性質の支持ですかと尋ねたことも一度もない。そこに実はかなりの支持感覚の違いがあったとするのだとしたら。実際、自分の知る範囲で、特に数十歳年齢が高い人による感覚の違いを体験している。「自民党に任せておけばなんでも上手くいくんだよ!」と豪語する、自分には最近、孫が生まれて嬉しがっていたおばあさんに昨年会ったことがある。そういう白紙委任の支持なんて私にはできない。そのときはそのおばあさんが私には変な人程度にしか思わなかった。しかし、この手の人は案外、世の中に多くいるということか。
 果たしてそういう人々の他人に対する感覚をそもそも認めていいのかという思いがする。大臣連中はあなたの親とは違うんですよ。
 そして、こういう人々により形成される世論を変えさせることは、対外国戦争敗戦ほどの、相当その支持者が追い込まれない場合を待たなければならない気がしてくる。先のおばあさんの場合、少なくともその孫は死ぬぐらいの代償は支払っていただく。

 ここでとりあえず、以上の仮定を下にしてでの私のショック等、書くことは止める。今、時間がないからだ。