重光葵『外交回想録』

外交回想録 (中公文庫)

外交回想録 (中公文庫)

 重光は1938年(昭和13年)に駐英大使に任ぜられ、そして1940年(昭和15年)に日独伊三国同盟が締結された後、英国で次のように意思を固める。

 「東京はただ単純に打倒英国の極端なやり方一点張りではあるが、私がひそかに考えるのに、彼らは国際関係の動きにも、ヨーロッパの戦局にも盲目同然である。私が柱となって国家を支えるほかないと覚悟した。すなわち英米関係をロンドンで支えて急に破綻の起こらないようにすることが第一点で、次にはヨーロッパ戦局の見通しをこの上とも正確に報告して、この点についてなお東京をして誤りの内容にすること(いままでの報告は何ら顧みられず無駄であった)が第二点である。私はこの最大重要時期を孤軍奮闘して行く決心を固めて、この爆撃の中を動かぬことに覚悟を決めた。」(350頁)

 一応注釈しておくと、当時の東京、つまり日本国内では日本軍により文人政治が傀儡化させられている。一方、国外では現地の外務省官僚による報告と同地の武官による報告とが出され、前者は後者に合わない場合、意図的に無視されるようになっていた。また「爆撃」とは、ナチスドイツによる日夜のロンドン空爆のことである。

 さて、以上の引用部分。これは私が重光の本に惹かれる理由の結晶のようなものだ。
 当時、日本軍、文人政治家、官僚の各々一部、しかし当時の主流は、自分の見たい見方を優先させているのである。それは、日本の植民地に住む人々の奥底の感情、また海外諸国の権力関係の見通しを誤らせていった。これら主流から見た、誤った見方をする者はその報告を無視されるだけでなく、松岡洋右外務大臣による人事異動等の手段をもってして除外されていく。ただし、重光は残される(この点や他の文章を含め、松岡に対する一方的な断罪をしない重光の記述からして、松岡と重光の間に友情があったように思える。その友情が重光人事には影響していたのではないか)。
 閑話休題。そういう中、重光は当時の駐英大使として日英の軍事的衝突を懸命に防ぐべく奔走する。無論、彼に対しても、東京主流から妨害は来る。例えば松岡外務大臣が英国政府外務大臣宛に、日英の協調はもはや終わったという主旨の文章を出すというように。重光はそういう、日本側外交トップの言動の悪影響を英国政府をして最小限にならしめ、何とか二国の協調を果たそうとする。こうして彼は、英国側からしてみれば挑戦的な日本側文書を英国において制御しつつ、英国政府の反日的行動への傾斜を抑制しつつ、自身の国家的柱たることを自覚した言動をとり続けたわけだ。
 しかし、最後は帰朝、すなわち日本へ戻るよう辞令が下る。彼はそれを「我が使命、遂に失敗」という章で書いている。
 重光の当時の心労を敢えて無視して今の私が勝手に書くと怒られるかもしれないが、帰朝を実現されないようにする道、すなわち大使館に居残る道もあったと思う。ここを読んでいる最中、私は、帰らないでくれ、と何度となく思った。しかし、彼は、辞令発令から一か月間ほど考え、日本に戻って東京主流を説得する方が国運を良い方向に転じられようと、一縷の望みを託して、帰朝の道を選ぶ。実際、その後の戦中の外務大臣等になる。
 私は日夜こういう働きをする外務官僚がいてほしい。また、当時の東京主流のような考え方を持つ者に対して日本国民が目を光らせることが大切なことであると、重光の著書が教えてくれていると思うのである。
 なお、本書は、『昭和の動乱』で記述したことであっても、詳しく書いたり、時には重光の心情が書かれてあったりと、『動乱』とは異なる構成になっている。そして、帰朝、すなわち、1941年までの話で終わっている。しかし、海外諸国間状況、政界、軍部、国民、日本植民地の動向をどれも見据えつつ論を語るという点は『動乱』と同じくしている。どれの視点を欠くこともあってはならず、この五視点を同時に総合して国運、平和を考えよ、というのがこの二書の教えなのだろう。