牛乳石鹸のCMにおける相容れない二つの父性

https://www.youtube.com/watch?v=CkYHlvzW3IM&feature=youtu.be

 牛乳石鹸の商業広告が物議をかもしているというニュースを読んだ。実際、その広告を動画で見てみた。以下、その感想について書いてみたい。

 一言でいうならば、父性とは何かを2つの視点で提示し、それが相容れないようこのCMは書いている。その視点とは、1.家族に自ら寄り添っていく父。2.家族の一員に何かがあっても仕事を優先させて後回しにする父。
 1は、以前から予定されていた息子の誕生日行事に父の方から自ら参加していく。妻はそれを望んでいて、かつ、2のような父性を息子を持つ夫に望んではいないように思える。
 一方、2は、父以外の妻と息子たる家族構成員からは確かに理解が得られにくい父である。仕事は大切にし、今回のように仕事上で叱責された部下のフォローに力を注ぐ。そして、CMでは、その主人公である男性が、実は自分の想像していた夫や父親像はこちらなのではないかと薄々思うところが描かれている。それはCM始めから不連続的に描かれている。なお、自らの小学生時代らしきころに出ている自らの父を主人公は正にその象徴として懐かしく思っているようにも考えられる。そのシーンは風呂場で息子が父の後姿を間近で見るものである。
 CMでは、こういう2視点での父性を交互に提示しつつ、終盤にそれが露骨にかち合う。2型に対して積極的には意識上は賛同してなさそうだが実際の行動はその方向で動いていた夫に、息子の誕生日行事をすっぽかしたことを妻が非難する。夫は葛藤しつつ風呂に入る。そのとき、「さっ、洗い流そ」と石鹸の広告が関係する。風呂上り後、夫は1型に理解を示していないことを妻に詫び、CMは終わる。
 以上がCMの様子。

 そしてこのCMに私が絶妙だなと思った点を書く。それは、小学生ぐらいの息子には風呂場で父の背中を洗って流すという行為が父の威厳を肌で感じさせることにつながっている点を指摘していることだ。この説得は理屈を通じてではない。体感、骨身に染みる、そういうものだ。独りで入浴する父がその姿を子に見せなくてはダメなのである。
 顧みれば私などは自分の父を名乗る人間が真に父であるか、その父性を陰に陽に何度となく確かめてきた。父と息子が二人で入る風呂場とはその点検の場のひとつではないのか。そこで息子である自分が感じることは、「父の背中は大きい」というものだ。風呂場はそういう儀式の場でさえある。なお、おそらく息子にそれを感じさせなくなりつつあるころには別々に入浴するように思う。
 そういう儀式場に石鹸は確かに道具としてあった。そこを今回のCMが目をつけて、そういう儀式嬢として存在していた風呂場を喚起したところに私は鋭さを感じたのである。
 なお、「さっ、洗いながそ」という文句は、2の父性を妻が理解してくれない現状と確かにどこか不都合間を自ら感じる悩める主人公に慈悲的な印象がある。このときにも石鹸を使っての入浴が絡んでいるのも面白いところで、今度はそういう悩みを消し去る道具として石鹸が登場してきている。それは、先の儀式場での道具としてあった石鹸とは違う意味を持つ。このCMには石鹸の象徴的意味が2つ描かれているのである。