言葉の時代の変化

 言葉の使用法に関することで気になるのは、おそらく人間が言葉を話し始めてからあると思う。

 最近、「〜させていただく」とやたら連発する輩の話を聞かざるを得ない状況にあった。何度もそうされると話者の立場は異常なまでに矮小化され、その表現を聞かされるこちらは心もとない感じになる。また、自分に対して少なくともその場では命令してきたり権力を振るってきたりする人間がこういう言葉を使うところを聞くと、ならば今から話したりやろうとしたりすることを止めたらいかがですかと思うのだが、その輩が話や行動を止めることはない。卑しい。どうもこの表現は好ましくない、嫌らしささえ感じる。

 ちょっと前になるが、ら抜き言葉がよくないと言う自分よりも10歳ほど年下の人がいた。
 私自身も高校生ぐらいまではそう思っていたが、今はすっかり是認している。いやむしろ便利だと思っている。なぜならば、可能と受身の意味がひとつの表現であった事態が解消されたからだ。ら抜き言葉は可能の意味でしか用いられない。これまではいちいち文脈で推測するしかなかったが、ら抜き言葉の登場により形式から意味が分かるようになってくれた。先の嫌らしい言葉の遣い方とは違い、こちらは時代が変わってくれてよかったと思っている。