「国民の理解が進んでいない」という言葉

 最近、安倍首相や菅官房長官による安保関連法案をめぐっての、「国民の理解が進んでいない」という言葉の遣い方が実に気になった。
 そもそもが理解不能な趣旨の法案であり、同法案の法律化に成立に反対を予め示しておく。ただし、今はこの法案それ自体の話には触れない。
 今私が気にしているのは、反対者に向けてこの言葉をかたくなに言い続ける人々の姿勢なのである。そこには、自分の意見に対する反対者が居る場合、アンチテーゼを唱える人が居る場合、その反対意見を理解するという過程が見えない。なぜゆえに説明しているのに、どの点が分かってもらえないのかという逡巡が感じ取れないのである。そして、慇懃無礼に自分の言いたいことばかりを言い続け、言われた側は拒絶すると、言った方は、相手が悪いと言わんばかりなのである。
 これら一連の流れには、終始、相手とは自分の意見に、どういう形であれ賛成してもらえればいいだけの存在でしかない。自分には都合のいい、協賛のためのモノとしか看做されていない。
 以上のように省みると、自分の意見を言い、かつ相手の意見も聞くという過程が、少なくともこの法案の法律化の場においてはなかったと思えるのである。こういう過程を「自由主義」や「リベラリズム」というものと思うが、それの否定が最近、堂々と国政においてなされていたわけだ。「理解」という言葉の定義を「読み解く」というような価値中立的な意味としてではなく、「賛成」に提唱者の方がすり替えている。こういう新定義までもが発明されてしまっている点も気がかりである。