戦争提唱者と戦争負担者との不一致は不正義である

 最近、ある衆議院議員の発言が物議をかもしている。その発言は、要は、様々な理由により日本人は戦地に赴くべきだ、というものである。
 その人の twitter なりブログなりを見ていて呆れて思うのは、その人自身が命がかかった戦地に全く行かない点に尽きる。
 今から100年前の第一次世界大戦を元にした『西部戦線異状なし』という小説がある。私は以前、それを映画化したものを見た。よって、内容が小説のものとは以下は違うかもしれない。
 そこには、最初は何かバカンスにでも行くかのような高揚とした気分で戦線に赴いた兵士の主人公が、仲間が死傷していき、自分も含めて全員が塹壕で数か月間暮らし、そのような状況に耐えられなくなりつつある最中、帰国命令が出てドイツに戻ると、偉い人たちが酒を飲みタバコを吸いながら自分に戦争での楽しい話を呑気に尋ねてくることに怒りを表す描写がある。つまり、現実が分かっていない、戦争を仕掛けた偉い人たちは、戦地から戻ってきた主人公から見たら人でなしであったわけだ。
 こういう、主戦論者と戦地に行く人との不一致は不正義である、と私は思う。ちなみにその主人公は戦場にその後復帰し、そしてあっけなく死んだ。
 さて、その議員氏の発言には正にその基調があると私には感じられたのであった。
 なお、戦死者には最高の名誉を贈ったり物質的充足を遺族に約束したりする習慣が現実的にある。また、よく、戦死者を追悼するにあたり後世の人々で「こういう尊い犠牲があったからこそ今の私達があるのです。安らかにお眠り下さい」という主旨の話をする人もいる。
 いずれにせよ、そういう戦死者は生前、そのようなことを望んでいたのかと私は疑問に常々感じる。彼らの望みは結局、『西部戦線異状なし』の主人公のように、戦地に行く前の平凡な穏やかな生活であったのではないかと思うのである。