外来語と擬音語

 日本語が外来語に頼るとき、それは擬音語で表現しようとするのとそう変わりはないのかもしれない、とふと思う。例えば、「アカウントにログインする」というのと「弾をドンッと撃った」というのとでは、両者にそう変わりはないのかもしれないというのだ。
 両者の一致する点は、音声または音声らしきもので表現を済ましてしまうということだ。
 そこにはさほど、外来語ならば翻訳をしたり、擬音語ならば形容できる語句を用いたり、という必要が出てこない。それで、その手の話者筆者には助かるのだろう。
 しかしそういうことばかり繰り返していると、外来語や擬音語で表そうとしている対象がどういうものなのか、その着眼点を探る行為が欠如してしまうこととなる。言葉を使うというのはそういう段階で留まってしまっていいのか、はたして良くないと思う。
 では日本語を使ってどうやって立ち向かうのか。漢字を使うのかなと思う。平仮名それ自体は意味がない。片仮名は論外だ(それを否定しようとしているのだから)。明治期に様々な欧米の言葉を翻訳していった西周福沢諭吉などがやったように現代でも日本人は対処するしかない気がする。