優性思想との葛藤

 以下は、先日あった障碍者大量殺人事件、および「聴覚障害者の来店を「筆談できない」と断る → 聴覚障害者協会から抗議受け店が謝罪」(http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1890991.html)という記事を読んでの箇条書きの感想となる。

1.いずれも、ある集団に対する生死の判定者が現存している。
2.判定者による「死」の判断は、判定者自身によれば当然なものとして考えられている。そしてその判定は覆りにくい。
3.その判定者が判定者たる正統性は実はないこと。なぜか。障碍者による社会への貢献や名誉等の可能性を「判定者」は見落としてしまっているから。
4.一方で健常者による貢献や名誉等の可能性が障碍者のそれに比べて高いと誰が言えるのか。言えないならば、そもそも以上のような「障碍者」というカテゴリーを設けて話をするにあたっては様々な明快な前提条件を必要とするはずだ。
5.その上で、やはり「障碍者」としてある一定の知的身体的条件により追求できない自由がある人々がいる場合、周囲は自由実現への負担をすることになる。
6.一方、私は障害がなければいいという考えを持っている。だから、例えば障害の存在が指摘されるための誕生前の人工中絶という考えには賛成している。
7.誕生前と誕生後だったらと話が違うようですがと言われるかもしれないが、私は、現に存在するものを無条件で否定してしまうことに反対しているのだ。
8.この類の優性思想は、今回の記事に限らず、形を変えて現在行われつつある。例えば、「ゆとり」というカテゴリーが設けられ、そのカテゴリを設けた前提条件を大きく書いた制限なき攻撃対象とするような話がある。なお、以下は優性思想議論からは脇道にそれてしまうが、ゆとり教育について。これは理念としては一種の自由の価値の追求だった。