何のために勉強するのか、ということについて

1. 最近、なぜ勉強するのかということを訊かれた。ここにいう「勉強」とは大学の講義などを指すようだった。
 この質問者は20歳の女子大学生であったが、こういう質問は20歳だったときの自分も幾度となくしたものだった。だから、訊かれて懐かしい感じがした。
 さて、私なりの回答。それは、「体系を知って初めて理解できることがあるから」だ。場当たり的に、何かを断片的に知っているというのは理解をし切れていないと私は考える。
 例えば、ノイズキャンセリングウォークマンなどに使われている。これを使うと、イヤホンからは外部音が遮断されたような状況で音楽が聞こえてくる。この機能とは、外部音の波の位相と180度異なる音の波を出すことにより、外部音は聞こえなくなるというものだ。これが分かるためには、単振動という現象を知らなくてはならない。単振動の学習は力学の途中でやるから、この技術が生み出す現象には力学の勉強が根っこにあることになる。

2. ところで、あの大学生の質問の背景には、今自分が学習している理論では何か自分の興味を惹かれるような現象に対する説明が出てこない、ということが問題意識としてあったのかもしれない。確かに、そういう状況に陥って何かしらのやる気が出てこないということは自分も経験した。
 そういう状況でやる気を出すには? 自分としては、その理論で説明できるような現象が何かを探すことがいいのではないかと思う。必ずしもそれは、講義している先生や読んでいる理論書に書かれているとは限らない。だから、自分でその人に訊いてみるとか、別の本を探してみるというようにして、何か具体例がないかをよく探すべきかと思う。 また、付言しておくと、他の人からしてみればその具体例は自分と同じく興味を引くとは限らないこともある。そういうことになっても周りに理解が足りないことを嘆くだけでなく、自分の方から他人に対してその人の知性の向上に努めてあげてほしいと思う。

3. 以下は後日の付け足し。
 『私は「役に立つ」という言葉が好きではない』という先日のノーベル医学生理学賞に言われたように、勉強が、というか何かの言動がどういう結果となるか、その帰趨は必ずしも判然としないものだと思う。ただし、判然としているような事実もある。例えば、放射能力の半減期。そういうことに基づいた結果がどういうものかは判然としている。
 とはいえ、判然としないようなことにまでも、何でもかんでも帰結の即時の判然性を異常に好むことは止めよ。そのとき、運が良ければ後々、かつて勉強したり考えたりしたことが「役に立つ」ということは、これを書く自分にはあった。その結果は当時勉強しているときには予想していなかったが、もしも過去に「今すぐに役立たないから」の理由をつけてストップさせていたら、結果はでてこなかったと思うように感じられた。
 そういうことから、「何のために勉強するのか」が不明なことのために勉強をストップさせるというのは将来を損ねてしまうということになると私は言いたいのだ。